コラム20
 
CHAとTAY(後)

前回、このコラムで「中国から外部にお茶が広まっていったルートは主に二つあり、「CHA」と呼ぶか「TAY」と呼ぶかで、その伝播の仕方が」判断することができる。ヨーロッパの大半では、福建系の「TAY」を語源としていると書きました。

しかし、ヨーロッパでは、お茶が中国から渡ったばかりの頃は、「CHA」と「TAY」の両方が使われていた様子があります。17世紀のイギリスの外国語辞書に"cha"とか"tcha"と記されていることからそれがわかります。

お茶が初めて本格的にヨーロッパに輸出されたのは、1610年のこと。当時、ヨーロッパー東アジア貿易を支配していたオランダの商船が、前年に日本の平戸に来航し、ジャワ島を経由してヨーロッパ大陸に持ち込んだのがそれです。

平戸に立ち寄っていることから、初めに運ばれたのは日本茶だったという説もあります。

その後、日本は鎖国政策をとったため、ヨーロッパへのお茶の輸入はほとんど中国が一手に引き受けることになりますが、日本のお茶、もっといえば日本のお茶文化がヨーロッパに与えたインパクトは小さからぬものがあったようです。

それは一般庶民が飲む茶ではなく、現在までも受け継がれている茶道のことと考えられます。当時のヨーロッパ人が残した記述には、日本人(上流階級の人々)が、粉末の茶をお湯でとかして泡立てて飲んでいること、そのときに使用するお椀や壷、その他の茶器が宝石のように高価で、非常に大事にされていることなどが書かれています。

当時のヨーロッパ人には(多分、現在の人々も)、どうしてお茶を飲むという行為のためにそんなに高価な器具を必要とするのか、どうしてただでさえ狭苦しい茶室の入口が、正座をして頭を屈めてやっと入ることができるほど小さいのか、等など多くのことが全く理解できませんでした。

しかし、どうやら日本の茶の飲み方に、高い精神性が込められていそうなことは伝わり、アジアに対する憧れを背景に、逆に全く理解できないが故に神秘的なイメージができていったようです。

1701年にアムステルダムで上演された芝居に「ティにいかれたご婦人たち」という喜劇がありました。お昼過ぎに貴婦人たちが、友人のお屋敷に集まり、女主人がエレガントな仕草でお茶を出します。

澄ました面持ちの貴婦人たちは、そのときに、お茶をカップから飲むのではなく、ていねいに一旦、ソーサーにあけて、そこからお茶をすすって飲みました。「ズズズーッ」と。

こうして音をたてて飲むのが感謝の表現で、礼儀とされていたそうです。思いっきり笑ってしまう話ですが、これは、日本の茶道の影響と考えられます。

オランダ人の手からイギリスに茶が渡ったのは、17世紀の中ごろのことなので、そのお茶は中国のものだったはずです。

しかし、かなり怪しく変形したものであれ、茶道という日本文化が一緒にヨーロッパに海を越えたことによって、「CHA」という言葉も、しばらくは命を保っていたようです。(山内)

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